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はじめに

みなさん、こんにちは。このコーナーでは、週に1回、エッセイを掲載しています。身辺雑記、その時々に感じたこと、忘れられない出来事などを綴っています。個人的なことの羅列で恐縮なのですが、適度な距離感でお読みください。
「愛してるっ!!韓国ドラマ」編集長 康熙奉

※毎週月曜更新予定です。コメント欄は最新記事のみ開放されておりますので、こちらにコメントいただきますようお願いいたします。

 今回が最後の原稿になる。

 今は、ビートルズの「アビイ・ロード」を聴きながら文章を書いている。

新聞の報道によると、イギリス政府は12月22日、ロンドンのアビイ・ロード・スタジオ前の横断歩道を歴史遺産に指定して保存するそうだ。イングランド地方には37万以上の歴史遺産があるが、横断歩道は異例だという。確かに今まで、横断歩道が歴史遺産に指定されるなんて聞いたことがない。

 しかし、「アビイ・ロード・スタジオの前」となると、それも当然かもしれない。なにしろ、ビートルズの傑作アルバム「アビイ・ロード」のジャケットに使用されたのだから。メンバー4人が縦一列になって横断歩道を渡る写真はあまりに有名で、4人を真似て横断歩道を渡る人が絶えない。私も機会があれば、ぜひ渡ってみたいと思っている。

 アルバム「アビイ・ロード」は私にとっても忘れられない名盤だ。

 1971年の夏休み、高校3年生のときに私は足立区の中央図書館に通いつめた。しっかり受験勉強をしようという腹積もりだったが、同級生たちと一緒に通ったために、ちっとも勉強に身が入らなかった。挙げ句に、視聴覚室でLPレコードばかり聴いていた。そこで目覚めたのがビートルズ。今に至るまで、あれほどワクワクするくらい刺激的な音楽は他にかった。

 すでにビートルズは解散していたが、デビューから最後まで彼らが発表したアルバムを順に聴きながら、心はシャウトしっぱなしだった。以来、アルバイトをしてはビートルズのLPレコードを買うということを繰り返し、彼らのオリジナル・アルバムをすべて揃えたときは感無量だった。

 一番聴いたのは、やっぱり「アビイ・ロード」。彼らにとっては最後に録音したオリジナル・アルバムだが、これだけ名曲を揃えたアルバムは、もう人類は作れないのではないかと思えるほどだ。

 特に、短い曲が流れるようにつながっていくB面に心酔した。多感な高校生のときに、こうした傑作にめぐりあえて本当に良かった。その感動は40年経った今も同じで、朝早く原稿を書き始めるときに、「アビイ・ロード」のB面をBGMによく流した。何度聴いても飽きないところがまた凄い。このアルバムは世界中で愛されたからこそ、そのジャケットに使われた横断歩道も歴史遺産になったのである。

 ビートルズにも影響されて作詩・作曲を始めた私は、将来的に音楽の仕事をしたいと考えていた。そんなこともあって、大学卒業後も就職しないでアルバイト生活を続けていたのだが、縁があって編集プロダクションで働くようになった。それが文章を書き始めたきっかけで、それから30年ちょっとが経つ。今も文章を書く仕事ができるのは本当にありがたいことだ。

 ただ、若き日に願っていた「音楽で身を立てる」ということが実現できていないのが残念だ。でも、ただの「残念」で終わらせるつもりはない。

 「始めるのに遅すぎるということはない」

 この言葉の意味を改めて噛みしめながら、このブログの原稿を終わりたいと思う。2年間ご愛読くださって、本当にありがとうございました。

Category: 日記
Posted by: kanghibong

 この原稿は、TOKIMEKIパブリッシングのホームページに掲載させてもらっている。スタートしたのは昨年1月で、1年間は日記形式だった。飲んだくれた話ばかり書いていたので、さぞかし不快に思った方もいるのでは……。また、「愛してるっ!!韓国ドラマ」の編集の裏話などを期待されていた方には申し訳なかったが、普段から韓流に関わる話題を執筆したり編集したりしているので、このブログではそういう話をあまり書きたくなかったのが正直なところ。それに、手の内をあまり明かしたくないという心理も多少は働いていた。かくして、昨年はどうしようもない身辺雑記に終始した。

 今年からはスタイルを変えて、週一のエッセイ形式にしようと相成った。やってみて、これが難しい。「さて、今回はどんなことを書こうか」と迷うことが多くて、自分の引き出しの少なさに落胆した。

 そんなことの繰り返しで、なんとか今年1年間を過ごしてきたが、私のこのブログもそろそろ潮時かと思い至った。そこで、今年いっぱいで終了させていただくことにした。原稿は今回を含めてあと2回分である。

 年末でもあるし、今年を回顧したいところだが、あえてここで取り上げるほどのことも特になかった。自分なりにいつもいろいろと企画を考えてはいたが、なにせ行動がともなわない。

 どんな新しいことに挑戦した?

 そう自分に問うても何も言えない。ただ、12月14日に我が編集部を読者に開放した催しだけは、やって本当に良かったと思う。

 当日は東京ドームの舞台にペ・ヨンジュンが立つということで、東京ドームから徒歩10分のウチをオープンにすればファンの人がついでに寄ってくれるかな、と思ったのだが、「100人も来てくれたらありがたい」という予想に反して300人もの方が訪ねてくれた。狭いオフィスは人でいっぱい。編集部のみんなもお茶だしでがんばった。

 私もずっと立ちっぱなしでよほど疲れたとみえて、翌日の朝はしばらく起きあがれなかった。しかし、こういう疲れは気持ちがいい。

 そもそも、編集部をオープンにするというのは、他の出版仲間から見れば突拍子もないことだったようだ。あちこちから「すごいことをやるねえ」と言われた。私自身は「面白いかな」と軽く思っていた程度だったが、遠方から大勢の方が来て喜んでくれたのを見て、大いにやり甲斐を感じた。

 普段は手紙で感想を書いてくる読者が、今回は口頭で「愛してるっ!!韓国ドラマ」の発行を楽しみにしていると伝えてくれた。その言葉の数々が本当にうれしかったし、今後も期待に応えたいと思った。

 もっともっと面白い誌面を作りたい!

 またまた意欲がみなぎってきた。
Category: 日記
Posted by: kanghibong

 年の瀬を迎えても、今年は忘年会の予定があまりない。年々、忘年会が少なくなっている感じ。世間も、忘年会で盛り上がっている雰囲気はない。どの居酒屋でも、「忘年会、承ります」というポスターがむなしく見える。

 昔の話をしたらきりがないが、1990年代前半までは、出版社や雑誌編集部がよく大々的に忘年会を開いていた。私もちょくちょく呼ばれたが、一般的なパターンは一流ホテルの立食形式。アイドルタレントも顔を見せ、余興ではテレビやビデオデッキが当たる抽選コーナーもあった。

 かなりの経費がかかっただろうが、当時は出版社も余裕があった。しかし、1990年代後半から本が売れなくなり、出版は不況業種に……。それにつれて、出版社主催の忘年会もめっきり減ってしまった。

 かつて一緒に仕事をした編集者、ライター、カメラマン、デザイナーの多くは、退職や廃業などで現場から姿を消した。懐かしい顔が思い浮かぶが、今は年賀状だけの付き合いになっていることも多い。忘年会が減るのも仕方がない。しかも、私自身は年末進行(出版界の専門用語で年内の締め切りが大幅に早まることを言う)で忙しいので、会合をなるべく新年会にまわしている。

 そんな中で、毎年かならず開いているのが3つ。12月の第三土曜日は所属しているサークル「コーチャンファミリー」の忘年会があり、28日は会社の忘年会、30日に競輪仲間の忘年会がある。

 特に30日には競輪界最大のレース、競輪グランプリが開かれるので、それに合わせて仲間と集まる。昼間っから飲みながら車券を買い、競輪が当たってもはずれても夜は深夜までハシゴ酒。これがいつもの楽しみだ。

 今年の競輪グランプリは立川競輪場での開催。9人のメンバーが凄い。近畿勢は村上兄弟と市田、北日本勢は山崎、伏見、佐藤、関東勢は武田と平原、そして、南関東勢は海老根。強豪が揃って見応えのあるレースになりそうで、今からワクワクしている。

Category: 日記
Posted by: kanghibong

 書斎の資料を整理していると、20代の頃に書いていたノートが出てきた。ひさしぶりに読んでいたら、なかなか感慨深かった。当時は、読書の最中に気に入った言葉をよくノートに書き留めていた。特に、寺山修司著「ポケットに名言を」(角川文庫)からの引用が多い。たとえば、次のような文章だ。

○去りゆく一切は、比喩にすぎない(オスワルト・シュペングラー)

○死んだ女よりもっとかわいそうなのは、忘れられた女です(マリー・ローランサン)

○今すべてが一変してはならぬという法は、ないではないか(ドストエフスキー)

○人は仰いで鳥を見るとき、その背景の空を見落とさないであろうか(三好達治)

○解かれることを望まない秘密だってあるさ(エドガー・アラン・ポー)

○ぼくは20歳だった。それがひとの一生でいちばん美しい年齢だなどとはだれにも言わせまい(ポール・ニザン)

○わたしは、お前の言うことに反対だ。たが、お前がそれを言う権利を、わたしは命にかけて守る(ヴォルテール)

○生まれようと欲するものは一つの世界を破壊せねばならぬ(ヘルマン・ヘッセ)

○そこで私は現実だと思っていたことが実は夢で、夢の方が実は現実なのだ、といったような夢を見たのだ(チェーホフ)

○人生は何物にも値しない。だが、人生に値する何物も存しない(アンドレ・マルロオ)

 同じく寺山修司著「少女詩集」(角川文庫)からも言葉を引き出している。そのいくつかは以下のとおり。

○この世で一ばん遠い場所はじぶん自身の心である

○片想いも恋愛のひとつのかたちです。相手は想像力です

○目はいつも二つある。一つはおまえを見るために、もう一つはぼく自身を見るために

○不幸な物語のあとにはかならず幸福な人生が出番を待っています

 この他にも、様々な本からの引用文をノートに書き移している。執筆する際の参考にしようと考えていたのだろう。

 今読んでも、ヘルマン・ヘッセの「生まれようと欲するものは一つの世界を破壊せねばならぬ」という言葉にはしびれる思いだ。そこには、新しいものを生み出す際の苦悩と覚悟が込められている。
Category: 日記
Posted by: kanghibong

 若い執筆者や編集者にアドバイスをする機会が多くなった。そのための資料として、ちょっとした文章を作ってみた。それをここで紹介したい。

<執筆・編集に必要な専門力>
1.校正力(これが一番大事。間違ったことを掲載するわけにはいかない)
2.記事作成力
  A.何について書くのか
     ネタをどう生かすかを最初に考える
  B.掲載するページ数を確定する
  C.写真素材を手配する
    ・カメラマンが撮る
    ・自分で撮る
    ・オフィシャル写真をもらう
    ・通信社や新聞社から買う
    ・自社持ちを活用する
  D.ラフを作る(この段階で文字量が決まる)
  E.執筆(本文、タイトル、サブタイトル、リード、クレジット、必要に応じてコラ
    ム、グラフを作成)
  F.デザイナーに渡す(指示用のラフを作る)
  G.デザインがあがってくる(著者校)
    ・自分が著者でないときは著者に渡す
    ・必要に応じてクライアントに見せる
    ・デザイン上の直しを入れる
  H.初校を戻す(参考資料と原稿を照らし合わせる。この作業を慎重に行う)
  I.再校で初校の直しを確認し、もう一度全体を通して読む
3.業界力(出版に強くなる)
    ・どんな本が新刊で出ているのか
    ・どんな本が売れているか
    ・他の雑誌の作り方を参考にする
    ・売れてる雑誌はどこが違うのか
    ・足しげく書店に通う
4.教養力
    ・なにごとにも好奇心を持つ
    ・とにかく本を読む
5.表現者、創造者であるという自覚を持つ
6.独創性を追求する
    ・オリジナリティが必要
7.企画力
    ・アイデアが出やすいツボ(場所や時間帯)を持つ
      電車の中、街をぶらついているとき、音楽を聴いているとき……
    ・他の雑誌の見出しを注意深く見る
    ・思いついたことをその場でメモする

 こうしたメモを配って、自分の経験談などを話している。全国の書店を通して、自ら書いた原稿を読者の方々に読んでいただけるのは、何にも代えられない喜びだ。
Category: 日記
Posted by: kanghibong

 友人に誘われて、わたらせ渓谷鐵道に乗った。

 この列車に乗るのは、今回が4回目。以前乗ったとき、車窓から見た渓谷の風景がすばらしいポイントがあった。それを楽しみに乗っていたら、沢入駅と原向駅の間の絶景に息を呑んだ。列車は渡良瀬川沿いを走るのだが、川原の岩の白さ、清流の透明度、対岸の葉・・それらすべてが調和して絶景をつくり出していた。

 帰りには、沢入駅で下車した。5年ほど前にもこの駅で降りたことがあった。それは、駅周辺にアジサイが美しく咲いていたからだった。

 そのとき、「川に降りられますか」と地元の人に聞いたら、「そんな道を整備するという計画があるみたいだけどね」と言われた。

 その計画に期待していたら、案の定、川原に降りる階段が新たに作られていた。表示によると、2年前に完成したようだ。

 川原の巨岩に腰をおろして、友人とウィスキーを飲んだ。透明な水面がキラキラ光って目にまぶしい。こんなに美しい川原は記憶にないほどだった。

 心地よく酔いながら、今までの鉄道旅行の中で特に印象に残っている車窓の風景を思い浮かべてみた。

 以下は、「私が好きな車窓絶景」である。

◆JR篠ノ井線「姨捨駅周辺」
 ここは日本三大車窓の一つ(他の二つは、肥薩線「人吉〜吉松」、根室本線「落合〜新得」。後者は新婚旅行で通ったが、酔っていたのか記憶にない)。眼下に善光寺平が広がる光景には心が浮き立つ。

◆JR大糸線「平岩〜根知」
 かつて青春18きっぷを使って、一日のうちに東京から金沢まで行ったことがあるが、そのとき、大糸線の南小谷駅から糸魚川駅に至る35キロの鉄道がとても良かった。列車はノロノロ走ったが、その分、車窓から姫川の景観を堪能できた。

◆JR飯山線「戸狩野沢温泉〜信濃白鳥」
 初めて一人旅に出たのは19歳のとき。小説「破戒」の舞台だった飯山に行った。そのとき、飯山線の車窓から見た千曲川の風情に惹かれた。1998年、43歳のときに再び飯山線に乗った。長野五輪のバイアスロンを野沢温泉で見るためだった。観戦後に、戸狩野沢温泉駅から越後川口駅まで飯山線に乗った。雪の千曲川が幻想的だった。

◆JR飯田線「唐笠駅」
 17年ほど前、天竜峡の舟下りを楽しんだあと、唐笠駅から飯田線に乗った。列車を待つ間、駅から見える目の前の天竜川がすばらしかった。桜の花びらがチラチラ舞い、となりに美女がいた。あのときの数分を今でも鮮明に思い出す。豊橋方面に向かう途中も、水量豊富な天竜川がよく見えた。

◆JR五能線「全線」
 五能線は東能代駅から川部駅までの147キロ。東能代駅から乗ると、前半は海岸線の風景に心躍り、後半は岩木山に見とれる。途中、深浦駅で降りて小さな宿に泊まったが、安い宿泊費にもかかわらず夕食の豪華さに驚いた。

◆会津鉄道「会津下郷〜湯野上温泉」
 車窓から見えるのは、ありふれた田畑と山並み。けれど、たまらなく郷愁を誘われる。その風景が見たくて、会津鉄道に何度乗ったことか。

 この他にも数々あるが、思い出せない絶景も多い。長い間ずっと車窓からの風景を楽しんできたが、ビールを飲んでいるときがほとんどで、ただボーッとしていただけだった。けれど、そんなときが至福の時間なのである。

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 原稿料の請求書に日付を書き込んでいた。
 平成22年11月11日。
 語呂のいい数字を見ていて、思い出した日付があった。
 平成11年11月11日。

 1がズラリと並んだこの日に、私は初めて韓国に関する書籍を執筆するために、韓国の南部に旅立った。

 それ以前は、「康奉雄(こう・たてお)」というペンネームでスポーツのことばかり書いていた。そんな私が父母の祖国である韓国について書くようになったのは、当時入っていた日本文芸家協会の会報誌に寄稿した原稿がきっかけだった。

 もう少し詳しく当時の状況を説明すると、まず、平成11年の秋に日本文芸家協会の会報誌から「こんな本を書いてみたい」というテーマでの原稿依頼があった。そこで私は、ソウルだけが韓国じゃないという意味を込めて、「韓国南部をゆっくり旅する本が書きたい」と書いた。

 それを読んだ編集者のNさんから連絡があり、この企画が一気に進んだ。

 そして、韓国紀行のために東京を出発したのが平成11年11月11日だった。当初は下関から関釜フェリーで玄界灘を越えようとした。その切符も手配してあったのに、出発の数日前に旅行会社から急な連絡があり、「関釜フェリーの船が故障したので欠航する」と言われた。

 その瞬間に困り果てた。飛行機が満席ばかりでチケットが取れなかったので船で行こうとしたのに、その船旅も駄目だという。困惑しながら代替策を練っていたら、博多から釜山(プサン)に行く高速フェリーの存在を知った。すぐに連絡すると、残りわずかだったが空席があって救われた。

 かくして、私は平成11年11月11日に博多からフェリーで釜山に行き、以後は韓国南部の旅を気ままに楽しんだ。

 釜山では繁華街の屋台で世界各国の船員たちと語らい、築数百年の家屋が残る河回村(ハフェマウル)では濃霧の中で神秘的な気分に浸った。ちょうど紅葉の季節とも重なり、韓国南部のどこも風景が美しく、改めて「ソウルでない韓国」の魅力を知った。

 その旅の見聞をまとめたのが「韓国ふるさと街道をゆく」(発行はスリーエーネットワーク)である。そのとき、今後は本名で執筆していきたいと思い、著者名をそれまでの「康奉雄」ではなく、「康熙奉(カン・ヒボン)」にした。

 それから11年。「韓国ふるさと街道をゆく」を書いている頃は、まさかその数年後に日本で韓流ブームが起きるとは、想像すらできなかった。そういう意味では、驚きに満ちた11年間だった。

 平成11年11月11日の早朝、まだ薄暗い中で自宅を出たときの心境はどうだったのか。はっきり覚えていないが、おそらく「韓国の紀行文を読んでくれる人がいるのかな」と心細がったことだろう。1が並んだその日は、私にとっては忘れられない出発の日になった。
Category: 日記
Posted by: kanghibong

 土曜日。一日中、原稿の整理に没頭した。何日もかかると思われた量だったが、一日で終わらせた。今年では一番気合が入った日だった。

 日曜日。前日張り切りすぎて気持ちも高ぶっていたのか、午前6時前に起きた。早起きしたこともあり、龍王峡に紅葉を見に行くことにした。

 東武線の北千住駅から午前7時21分発の快速・会津田島行きに乗る。車中で駅弁を食べ、新聞を読みふける。9時47分に野岩鉄道の龍王峡駅に着く。

 朝早くから大勢の人出だ。紅葉がきれいだったが、真っ盛りには1週間早いという感じ。今年は例年より色づきが遅れているようだ。

 龍王峡のハイキングコースをゆっくり歩く。私が好きな林の中の道で、過去に何度も来ている。ヤマハンノキのりっぱな立ち姿に感心し、岩肌を下りてくる清流に足を止め、対岸の滝に虹がかかっているのに見とれ、自然の力がからだに乗り移ってくるのを感じた。私の他に一人で歩いている人はほとんどいなかったが、一人なら気ままにどこでも足を止められる。寂しいけれど、気は楽だ。

 途中、ハイキングの道に携帯電話が落ちていた。
 「こんなところで携帯を落とす人がいるなんて」
 拾い上げて、そこらにいる人に声をかけてみようと思った。持っていれば、落とし主かその友達が電話をかけてくることもあるだろう。
 ふと前を見ると、不安そうに川のほうをのぞきこんでいる人がいる。声をかけて見ると、案の定、落とし主だった。50代の女性である。
 「どこに落ちていました?」
 「道の真ん中です」
 「川のほうかと思っていたけど」
 そう言うと、女性は礼を言って立ち去った。一件落着して良かった。

 3時間ほどウォーキングと休憩を繰り返し、ムササビ橋という吊り橋のたもとになる茶屋で昼食。山菜ごはん、きのこ汁、みそおでん、さつまいも……。田舎風の秋の味覚を堪能した。食後は日当たりのいい場所で読書。星野道夫著「旅をする木」(文春文庫)を読む。いい文章があった。引用してみる。

 「秋は、こんなに美しいのに、なぜか人の気持ちを焦らせます。短い極北の夏があっという間に過ぎ去ってしまったからでしょうか。それとも、長く暗い冬がもうすぐそこまで来ているからでしょうか。初雪さえ降ってしまえば覚悟はでき、もう気持ちは落ち着くというのに……そしてぼくは、そんな秋の気配が好きです」

 文中の極北とはアラスカのこと。秋が短いだけに、アッという間に色づき、そして散っていくのだろう。

 龍王峡から川治温泉に移動して、川沿いの露天風呂に入る。湯がぬるすぎるので、内風呂に入る。かつて同じ温泉で湯冷めして風邪をひいたことを思い出した。用心しなければいけない。

 帰りは特急スペーシアにしようと思ったら満席ばかり。紅葉シーズンだから仕方がない。区間快速でのんびり帰る。車中の楽しみは人間ウォッチング。後ろのボックスから耳慣れない言葉が聞こえたので様子を見ると、インド人の4人家族が乗っていた。興味があったので、となりのボックスにさりげなく移る。見ると、30代後半の夫婦と小学生の女の子が二人。奥さんの眉間には小さい丸が付いている。

 この夫婦、手を握りあったり肩を抱き合ったりと子供の前でずっとアツアツ。そういう親を間近で見て育つ娘たちも、大人になったら同じことを繰り返すのだろう。

 その他の同乗者たちは……。

 うしろのボックスでは二人の幼児が騒ぎまくっている。そのうちの一人が座席の角に頭をぶつけたようで「ゴツン」という音が聞こえてきた。心配したが、幼児は泣きもしない。強い子に育っている。

 同じボックスにいるのは、ハイキング帰りでゲームばかりやっている30代男性、ゴルフ帰りで着席早々カバンから内服薬を取り出して飲んだ50代男性、男だと思ったら実は女だった年齢不詳のおばさん。この3人は途中からずっと寝ていた。

 はす向かいのボックスではゴルフ帰りの60代男性が缶コーヒーを飲んでいたが、飲み残しを床に置いたら缶が倒れ、中身がこぼれた。それがこちら側に垂れてきた。

 オッサンは知らん顔をしていたが、私が目に力を入れて彼を見ると、あわててティッシュを取り出して床をふいた。あとで、そのティッシュと缶を床に置いたまま降りてしまったが……。

 それにしても、インド人の夫婦はよくしゃべる。二人の娘は英語の本を読んでいたが、夫婦はずっと話し続けていた。アツアツで会話も途切れない。

 「ウチならば……」

 想像してみたが、余計なことだった。我が夫婦なら、とうてい真似ができない。
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Posted by: kanghibong

 物書きになりたいという人に真っ先に注意するのは「絶体に盗作をするな!」ということ。これが一番大事。雑誌や書籍に発表する文章に盗作があれば大問題になる。過去にそういう事例を間近で見てきて、ことの重大さが身にしみている。だからこそ、若い人には「文章がヘタでもいいから、盗作だけは絶対にしないでくれ」と言っている。

 それでも、物書きの世界でなくならないのが盗作。つい最近の朝日新聞にも、他社の文章を盗用した事実を認めた記事が出ていた。これはたまたま発覚した例だが、気づかれなかった盗作は枚挙にいとまがないだろう。

 文章を書く人間には、人の文章をそっくり真似る輩が意外と多い。だからこそ、物書き志望の人に対しては、口がすっぱくなるほど注意するのである。

 二番目に言うのは、「校正に全精力を傾けろ」ということ。人はえてして間違ったことを書いてしまう、という前提に立てば、自分の文章から誤字や事実誤認を見つける作業にこそ最大のエネルギーを注ぎ込まなければならない。特に、パソコンで文章を書くようになって、漢字の変換ミスが本当に多くなった。この点にも最大の注意が必要だ。

 盗作もせず、間違ったことも書かない。これを原点として、次はいかに文章力を磨いていくか。

 物書きの初心者を指導していてうんざりするのが、主語が正しく述語につながっていかないこと。これは、明らかな文法上の間違いである。たとえば、「私は今日、銀座で買い物をしたあとで映画を見て、ガード下の居酒屋でビールを飲み、偶然旧知の義雄と会ったので、彼はとても酔っていた」というような文章。今まで、このテの文章をさんざん読まされた。主語は「私」。しかし、述語は「酔っていた」になってしまう。けれど、酔っていたのは私ではなく義雄である。どうしてこんなことになってしまうかというと、文章が長すぎることも一因だ。長くなると、主語と述語がこんがらがってくる。そこで、文章を短くすることを勧める。たとえば、次のようにする。

「私は今日、銀座で買い物をしたあとで映画を見た。それから、ガード下の居酒屋でビールを飲み、偶然旧知の義雄と会った。彼はとても酔っていた」

 長い文章を三つに区切ると、それだけ主語と述語の関係もわかりやすくなる。初心者は文章を長くしがちなので、「文章はできるだけ短く」と注意する。

 他には、次のようなことをよく指摘する。
「形容詞を使いすぎない。一つの名詞にかかる形容詞はなるべく一つ」
「読点を多めに打つ。ただし、意味がつながっている文章をむやみに読点で区切ることはしない」
「同じ言葉を繰り返すことを避ける」
「表記を統一すること。昭和四十年と書いたり、昭和50年と書いたりするのは駄目。昭和四十年と書いたら、同じように昭和五十年と書く」

 プリントされた文章を添削すると、用紙が真っ赤になる。書いた本人はひどく落胆するが、そうやって若い書き手は鍛えられていく。

 内容を吟味したときによく言うのは「贅肉が多い文章を書くな」ということ。雑誌や書籍に載る文章は選ばれたものでなくてはならない。そのためには、文章を削るにかぎる。それで文章がなくなってしまったら、それはもともと中身がひどかったのである。もう一度書き直すしかない。

 推敲を繰り返しながら、文章はどんどん削れていく。もったいないけれど、仕方がない。削れば削るほど、残った文章には価値がある。逆に、文章量を合わせるために水増しのような文章を書いてはいけない。人にさんざんそう言うだけあって、私もそのことを肝に銘じているのだが……。判断するのは、私ではなく読者である。(この文章には一つだけ誤字があります。見つかりましたか)

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Posted by: kanghibong

 20代の頃、土曜日に家にいるときによく見たのがアメリカのテレビ番組「大草原の小さな家」。当時、NHKで土曜日の午後6時から放送していたと記憶している。

 アメリカ西部開拓時代の農民一家(インガルス家)の物語。その頃を描いたドラマや映画といえば、派手に銃をぶっぱなす作品しか知らなかったから、男が丸腰で畑を耕すシーンがよく出てくるドラマは逆に新鮮だった。

 インガルス家の家族は、チャールズとキャロラインの夫婦と、娘三人は上からメアリー、ローラ、キャリー。物語はローラの視線を通して、困難を乗り越えて家族の絆を深めていく一家を描いている。一話完結方式で、たとえ見逃しても、次に見たときに話の筋がよくわかるのも良かった。しかも、脚本がよくできていて、挿入されるエピソードが興味深いものばかり。一家が住む小さな村の人々も独特のキャラクターを持っていて、ずっと見ていると、まるで自分がその村の住人になったような気分になったものだった。

 とにかく、土曜日の午後6時になって、テレビから郷愁を誘うようなテーマ曲が流れると、「今回はどんな話なのかな」とウキウキした。

 娘たちの成長を追いながら、10年くらいにわたって断続的にシリーズが続いていたが私が結婚したときには、もう放送が終わっていた。「もっと続いてくれて、家族と一緒に見たかった」と惜しんだことを覚えている。

 そんな思い出深い作品が、つい最近、DVDコレクションとしてデアゴスティーニから発売された。そのCMをテレビで見て、創刊号を早速書店で購入した。1号あたり3話ずつ入っているコレクションが、今後は隔週で68号まで発行され、全204話が網羅される予定だという。どこまで付き合えるかわからないけれど、折にふれて買ってみようと思っている。

 創刊号に入っている3話は、物語の一番初めなので、広大な農業地帯に移住してきたインガルス家が家を建て畑を耕すところが描かれる。見ていて感心するのは、チャールズが本当によく働くこと。それこそ、早朝から夜遅くまで肉体労働に従事している。しかも、粗末な食事しかしていない。それでも、不平を言わず、一家の大黒柱としての役割に徹している。また、妻を心から尊重し、子供たちを愛情込めて育てている。これ以上の「理想の父親像」は他にないだろう。

 ドラマでの話なので、必要以上に感化されることもないのだが、それでも、チャールズに強いあこがれを抱く。もう手遅れかもしれないが、彼に一歩でも近づきたいと思った。妻を尊重できず、子供たちを自分の狭い枠の中でしか育てられなかった男の反省の弁である。一言で言えば、「準備ができていなかった」。結婚して夫になる準備も、子供が生まれて父親になる準備も足りず、場当たり的に夫と父親の役割を果たしてきた。もちろん、愛情はあった。一家の大黒柱としての責任感も強かった。しかし、常に自分の流儀を通そうとした。その最中には気づかなかったが、今になってみるとよくわかる。いかに一人芝居を演じていたかを……。

 時計の針は戻せない。今は、これから自分にできることを真剣に考えたいと思っている。まだ間に合うことがあるんじゃないのか。そんな気分だ。

 多くのことに気づかせてくれたチャールズという男。演じているのがマイケル・ランドンだ。笑顔が魅力的でいい役者だ。しかも、彼はプロデューサーと監督までこなしている。彼なくして「大草原の小さな家」は名作として世に出ることはなかっただろう。確か、彼が早死にしたという訃報をニュースで知った記憶がある。調べてみると、1991年に55歳で亡くなっている。世界中にいる「大草原の小さな家」のファンがその死を惜しんだことだろう。

 一つ意外だったことがある。今回はDVDコレクションを通して「大草原の小さな家」を吹き替えなしで見た。マイケル・ランドンの生の声を聞いたのだが、かつてNHKで見ていたときの吹き替えの声とあまりに違いすぎた。吹き替えの声は甘くてあったかい感じだったが、生の声はどちらかというとダミ声。頭の中のイメージを修正するのにホント、苦労している。

 そこで思い出したのが「冬のソナタ」。やはりペ・ヨンジュンの声が吹き替えと生の声とではギャップがありすぎるとよく言われていた。私は最初からペ・ヨンジュンの声で見ていたが、最初に吹き替え版で見た人は、その後にイメージを修正するのが大変だったのではないだろうか。外国のドラマを見るときの難しさがそこにある。

Category: 日記
Posted by: kanghibong

 10月16日。土曜日だが早朝から事務所に出る。

 11月20日頃に発売になる「愛韓」36号の編集作業も大詰めを迎えてきた。特に大事なのが巻頭記事。今回はペ・ヨンジュンが12月14日に東京ドームに登場することを伝える記事を作成。当日は東京ドームから徒歩10分の我が編集部をオープンにして、いろいろな企画を練ってファンの方々を迎えたい。どんな趣向ができるのか。編集部のみんなで頭をひねるつもりだ。

 午前中に仕事を終わらせて横浜のJR石川町駅へ行く。所属している親睦サークル「コーチャンファミリー」の月例イベント。今回は横浜散策と中華街の食べ放題だ。

 9人でイタリア山、外人墓地、港の見える丘公園、山下公園を回る。汗ばむ陽気の中で坂を登ったり下ったり……。「港の見える丘公園」から港を見下ろすのは本当に久しぶりで、港の景観がすっかり変わり、乱立した建物で海が見えないくらいだ。

 この公園に来ると、どうしてもオフコースの「秋の気配」を思い出すが、今の景観だったら、あんな抒情的な歌はできなかっただろう。

 喉が乾いたところで中華街の一角にある「横浜大飯店」。幹事は8月に予約してあったとか。それほどの人気店なのだ。その理由も明らか。2500円くらいで食べ放題になっていて、どの料理も美味しい。座っていれば注文した料理をアツアツで持ってきてくれるのもいい。しかも、ビールはサッポロの黒ラベル。この銘柄を置いてくれるのは本当にありがたい。

 しみじみ思ったのは、丸テーブルの合理性。9人で一つのテーブルを囲んだが、話が通りやすい。同じテーマをみんなで語りあえるので場が盛り上がる。まさに快食快飲快談だった。

 二次会は伊勢佐木町に繰り出した。徒歩で向かうまで、どういうわけか青江三奈のように「ハァ、ハァ」とため息ばかりもらしていた。別に息切れしていたわけではないが、伊勢佐木町と聞いた瞬間の条件反射がずっと続いていたのだ。

 伊勢佐木町では韓国料理「東大門」に突入。店のアジュンマに「中華街でたらふく食べたので、それほど料理はいらない」とことわっておいて、マッコリと焼酎を飲んだ。とはいえ、いくらお腹がいっぱいでも韓国料理店に来たらチヂミとチャプチェを食べたくなった。それを注文してつまみにしながら焼酎の「チャミスル」をみんなで何本も空けた。

 10月17日。今度は川崎に出掛けた。

 川崎駅前のたちばな商店街のお祭りで毎年、長谷川きよしがライブを行っている。これがいつもの楽しみ。40分のライブを合計で3回も披露してくれるので、ワクワクしながら長男と見た。

 いつもながら、ギターの演奏が抜群。どうすれば、あんなにギターがうまくなれるのか。いつだったか、彼に「1日にどれくらい練習するんですか」と聞いたら、「まあ、1時間くらいですかね」と言っていた。今はそうでも、若いときは10時間くらい練習していたのでは……。本当に惚れ惚れする音色だ。歌声も伸びがあるし、この日もまさに絶好調の出来ばえだった。

 ライブの合間には時間が空くので、近くの川崎競輪場に行って昼食を食べた。ここの名物はクジラフライ。1本120円。声を大にして言いたいほどの絶品。昔からの大好物で今回も一気に4本食べた。2本でやめておこうと思ったが、やっぱりやめられないのである。食べながら、ずっと感激していた。他に、アジフライとモツ煮込みもいい。とにかく、見境もなく食べまくった。

 再びたちばな商店街に戻って長谷川きよしのライブ。空からヘリコプターの騒音が下りてこようが、近くからイカ焼きやヤキトリのにおいが漂ってこようが、彼は歌の合間にひんぱんにチューニングをしたりエビアンを飲んだりしながら、午後4時10分まで3回のライブをやってくれた。そのまま成田に行ってヨーロッパ公演に出掛けるとか。かの地での成功を祈りたい。

 ライブ終了後はもう一度川崎競輪場に行って、遊び程度の車券を買う。ゴール前の金網に釘付けになっていると、そこかしこから酔っぱらいの怒声が聞こえてくる。ヤジを浴びる選手はたまったものじゃないが無表情を貫いている。絶対にヤジに反応しないように、よほど教育されているのだろう。内心は穏やかでないだろうが……。

 1レースが終わる度に夜空を見ると、月の位置が変わっている。30分ごとに月がどう動くかを確認しながら競輪場の金網のそばで過ごした。

 成績は1勝3敗1休。気落ちせずに帰れるのだから、これくらいの負けは想定内ということか。

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 地下鉄半蔵門線で神保町駅に向かっている車中で、ふと前を見たら、NHKラジオのハングル講座テキストを熱心に見ている女性がいた。

 お見受けしたところ40代半ば。韓国ドラマが好きになって韓国語に興味を持った、という雰囲気を漂わせていた。

 あまりに熱心にテキストを読んでいるので、「どのページを見ているのかな」とちょっと気になった。実は、そのテキストに私は連載ページを持っているのである。

 毎月担当しているのは、口絵2ページと本文2ページ。「韓流の贈り物」というタイトルで、ドラマにゆかりがある韓国各地の撮影場所を写真と文章で紹介している。今年4月から連載が始まり、来年3月まで続ける予定だ。

 本文のほうには私の写真も出ている。
「もし彼女が私の写真に気づいたら……」

 そう思い、持っていた新聞で顔を隠したが、これはいかにも過剰反応だった。その女性はハングルのレッスンページを熱心に読んでいたのであって、私の担当するページは一瞥もしなかったかもしれない。

 とはいえ、どこで誰に見られているか、わからないのである。昨年11月に仙台で講演を行ったが、その講演の前に仙石線に乗って「愛してるっ!!韓国ドラマ」の校正紙を読んでいたら、講演にいらした方が偶然に見ていたようで、そのことを会場で指摘されて赤面した。

なぜ赤面したかというと、一体どんなだらしない格好で校正紙を読んでいたかと我が身を振り返ったからである。頭をかきむしったり、赤いボールペンをブラブラさせたり、額や頬をこすったり……。さらに、座る姿勢もかなり崩れていたことだろう。そんな場面を見られていたとすると不覚である。しかも、私を車中で見ていた人は、講演会場で講師として私が出てきたので本当に驚いたという。「まさか、あの人が講師だなんて……」

 そう言って絶句したのではないだろうか。

 以後は、車中で校正紙をチェックするとき、一応は人の目を気にするようにしている。そうなると、集中力がちょっと散漫になるのだが……。

 それでも、電車の中で校正をすることはやめない。というより、わざわざ校正のためだけに電車に乗ることがあるくらいだ。用事もないのに鎌倉や高尾山に行って、その往復の車中で延々と校正をしていることも多い。

 「愛してるっ!!韓国ドラマ」の場合、初校が出たら、関連資料をもう一度ひっぱり出してきて、事実と相違ないかを机の上で丹念に調べる。そのとき、執筆時に気がつかなかった間違いが意外と見つかるものだ。それだけに、初校で事実確認を再度徹底させることが重要なのである。

 そうやって初校に赤を入れると、次に間違いを訂正した再校が出る。ここまでくると、事実確認の必要がなくなるので関連資料をしまったまま、ひたすら最初から最後まで再校を読む。このときも誤字や脱字がいくつか見つかる。人間はかならず間違いをおかす、という観点に立てば、再校をじっくり読むことが不可欠なのだ。

 この再校の際に、私は目的地に用事がなくても電車に乗る。何度も読んでいる文章を最後にもう一度読むというのは辛いのだが、車中ならその辛さがちょっとだけ和らぐ。しかも、環境が変わって意外なほど集中できる。それですっかり習慣になった。

 かくして、再校が出る度に、片道1〜2時間ほどの場所まで電車に乗って出掛け、そこの空気をちょっとだけ吸って、また電車に揺られて帰ってくる。その往復の時間が私にとって最良の「再校タイム」となる。

 今度の「愛してるっ!!韓国ドラマ」第36号の再校が出たときは、どこへ行こうかな。紅葉真っ盛りの時期だから、鬼怒川の先の龍王峡あたりが良さそうだが……。
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 神保町交差点の隅にしばらく立って、東南の方角の夜空に浮かぶ月を見ていた。

 この日は中秋の名月だった。旧暦の8月15日。近眼なので、月の輪郭がくっきり見えたわけではないが、都会のおびただしい照明の中から見上げても、月は別格の輝きを誇っていた。

 販売店が流す威勢のいい音楽、車のエンジン音とクラクション、道行く人たちの笑い声や怒声。そんな雑音すらも、私にとってはありふれた日常の響きだ。けれど、月を見つめていると、不思議と何も聞こえてこない。わずか一瞬ではあったが、まるで草原に立っているかのようにも錯覚した。

 たとえ人類がその地に降り立ったとしても、月の神秘性は変わらない。そもそも、私が見つめている月と、宇宙飛行士たちが行った月は、まったく別のものではないのか。あんなに遠く高いところまで人間が辿り着けるはずがない。そう思えば思うほど、月は一層の輝きを増す。

 そのとき、月に雲がかかった。夜空でも見分けられるほどの黒い雲だった。それでも、月は黒い雲を通して、私にかすかな輪郭を示してくれた。

「ここにいる。だから、安心しろ」
 そう語りかけてくるかのようだった。

 何千年前にも多くの人間が抱いたはずの疑問を今の私も持っている・・なぜ月は頭上にあって夜空の中で輝いているのか、と。

 一度そう思い始めると、すべてが疑問の海に溺れだす。そもそも宇宙の中に地球という惑星があることの奇跡。その地表に生命体として現れた人間が際限なく増長しているとい恐ろしさ。その結末は考えたくないが、いずれは強烈なしっぺ返しを食らうことになるのだろう。人間がこれまでやってきたことを考えたら、いつまでもこのままで済むわけがない……。

 なんだか、話が深刻になってきた。改めて、中秋の名月を見つめる。雲が切れて、再び月が輝いている。

 どんなに世の中が変わっても、私が見つめるものの中で唯一、その存在が不変なのは月だけだ。太陽は「見つめることができない」という意味で除外すれば、の話だが。

 今朝は早くから自宅を出て浅草の実家に行った。祖先への祭祀(チェサ)を行うためである。

 朝鮮半島に住む人たちにとって、昔から旧暦の8月15日は「秋夕(チュソク)」だった。日本でいえば旧盆のことで、この日は親族が集まって朝に祭祀を行い、その後は墓参りに出掛ける。この祖先崇拝の儀式を在日コリアンの一部は律儀に守っていて、私の一族でも毎年欠かさない。

 ただ、両親の墓は韓国の済州島(チェジュド)にあって墓参まではできないので、行うのは朝の祭祀だけである。

 今年の旧暦8月15日は9月22日だった。午前8時から兄の家族と一緒に祭祀を行い、終わったあとはみんなで朝食をともにした。ビールも出るが、平日の朝なのでそうは飲まない。コップ1杯ほどでやめて、祭壇から下ろした肉や野菜をひたすら食べた。

 それから事務所に行って夕方までこもりっきりだったが、昼食に出たときは猛暑ですぐに汗が吹き出てきた。「秋夕」の日がこんなに暑かったのは記憶にない。それほど今年は猛暑続きだったということだ。

 日が暮れてからの楽しみは、もちろん中秋の名月。神保町交差点でしばらく見たあと、帰宅後に物干しから再び月見をしようと思っていたが、もはや雲が厚くなって月は隠れたままだった。

 それでも、しばらく物干しにいて、月の出ている方向を見つめた。風がやや肌寒い。日中の猛暑とはうってかわった温度で、夜にはすっかり秋になっていた。

 私が見上げている方向に、確かに月があるはずだ。そう思い続けていると、微かだが月がうっすらと見えるような気にもなってくる。雲に隠れた中秋の名月を特に「無月」と言うそうだが、私の心の中では、その晩はずっと「有月」だった。

 姿を見せずとも、そこに厳然と残る存在感。中秋の名月に己の未来を託したい気持ちでいっぱいだった。

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Posted by: kanghibong

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